結果と努力

高校の時から、私はどんなことで困っても、いつも父に言われたことを思い出しています「失敗しても、成功しても、大事なことは努力だ」。初めてそう言われたのは、高校一年生の時、クロスカントリー試合の後でした。試合のコースで迷ってしまったので、一番遅くゴールしました。とても恥ずかしかったです。でも、試合の後でチーズバーガーを食べながら、父はそのアドバイスをくれました。その時から緊張する度に、父からのアドバイスを思い出します。

「失敗しても、成功しても、大事なことは努力だ」という考え方は、本当に安心させる力を持っていると思います。クロスカントリーや他の経験からも、結果を心配するのは役に立たないということを習いました。役に立つのは、完ぺきかどうか心配しないでする練習です。なぜなら、結果を心配していたら、臆病になってしまって、よく練習できません。練習できなかったら、成功したり、目的を達成したりすることもできないのではないでしょうか。

結果を心配する理由は間違いや失敗を怖がっているからだと思いますが、ある実験で、間違いや失敗の重要性が分かりました。この実験で、お皿やコップを作る陶芸の授業の学生を二つのグループに分けました。グループAの成績は、一番いい一つの作品の完ぺきさで決め、グループBの成績は完成した全ての作品の重さで決めることになりました。グループAの学生は、完ぺきさや結果を心配したせいで、なかなか陶芸を作れませんでしたが、グループBの学生は間違いから学びました。つまり、質がいい作品はグループBが作ったものだったそうです。

この実験について考えるとき、自分の夢を思います。実は、作家になりたいという夢を持っているので、今私が書いた物語を文学雑誌に送っています。日本に来ている間に、断りの手紙をもう3通(つう)ももらいました。でも、断れられても大丈夫です。物語を書くのが好きな理由は発表してもらうことではなくて、情熱です。受けいれられても、断られても、書き続ける。今年のゴールは、断りの手紙を25通ももらうことにしました。まだ5通もしかもらっていませんが、これから頑張ります。

この実験は何でも上手に作りたいと思っている人や、何かの能力を持ちたい人にも当てはまります。小説を書きたい人、コンピューターソフトウェアを作りたい人、言語を話せるようになりたい人も、練習の完ぺきさの代わりに、練習の分量の重要性を覚えておいた方がいいと思います。だから、自分でそのような「失敗してもいい機会」を作るのが大事ではないでしょうか。そうすると、成功以外に、自分の努力を評価できるはずです。努力で意味と喜びを見つけられば、人生の幸せも見つけられるに違いありません。

走る所を見つけた

今週教科書のチャプタは「心と体のバランス」というタイトルだ。私も函館に着いてからそういう問題について考えている。エディンバラに留学している時、1週間に3回、4回ぐらい走るのに慣れたけど、その時の方が暇だったから、函館で同じ瞬間を進むのは大変だ。忙しいし、宿題があるし、どうやってバランスを見つけるのは難しい。

エディンバラに留学している間、1週間に二回、三回ぐらい同じのアパートの近くの美しい公園で走った。その公園は本当に美しかった。高い丘が四つあったから、丘の周りで走ると、きれいなエディンバラ都市の景色が見られた。走りながらきれいな風景を見るのは大好きな喜びだ。そして、高い丘だったから、早く強くなってきた。

だから函館でもきれいな走るところを見つけたかっただ。先週の火曜日、そういう所をとうとう見つけたと思う。その前に毎回走る時、家から南に行ったけど、火曜日に北に初めて行った。いい決断だった。少し時間が経つと、北海道の田舎に入った。田、畑、川を通った。函館未来大学も通った。家に帰る時、函館港の船までも見られた。火曜日は5マイル、金曜日は7マイル走ったけど、その辺に走り続けたいと思う。

こういう間違ってもいい日本語を練習する機会が気に入っている。同じような考え方で、英語で毎年「NaNoWriMo」というチャレンジする。「NaNoWriMo」は省略なんだけど、長い名前は「National Novel Writing Month」ということだ。チャレンジは11月に50000以上の文字の小説を書くことだ。つまり、30日で小説を書くチャレンジだ。一番好きな月だ。上手に書けるかどうかという問題じゃなくて、長さだけのチャレンジだから、書くことはなんでもいい。その上に、他の人との競争がない。自分自身のチャレンジだけだ。そういう結果を心配しないで能力することは大事だと思う。

ISの小説を選ぶ問題

 

今週ISのことを決めなきゃいけないと思う。問題は読みたい作品を探すことじゃなくて、読みたい作品の中で、一つを選ぶことだ。今読みたい作品は三つある。川端康成の「雪国」か、太宰治の「人間失格」か、辻仁成の「海峡の光」だ。「雪国」と「人間失格」の長所は、日本文学歴史で、大切でよく知られている小説だ。日本で大体みんなが知っている小説そうだ。だから、「雪国」か「人間失格」を読めば、日本文学をもっと深く理解できると思う。日本の現代文学に関する記事では「日本の現代文学の特徴は、前の日本文学の伝統と離すことだ」ということがよく書いてあるけど、その前の日本文学の伝統が知らなかったら、そういう現代特徴も理解できない。そして現代文学の源泉を知りたいと思う。

「海峡の光」の長所は函館との関係だ。作家の辻仁成は今バリに住んでいるけど、子供の頃函館に住んでいて、西高校の卒業生だ。1997年に芥川賞をもらった「海峡の光」という小説も函館と関係がある。タイトルの「海峡」は青森と函館の間だ。すごくない?

どっちの方がいいかなあ。日本文学歴史の知識か現代的な函館についての面白さ。

英語でもこういう問題ごよく起こる。現代文学の世界は本当に賑やかだから、いつでも読みたい新しい作品を見つけられる。その上に、作家になりたい人にとって現代文学を読むのはもっと大事なのではないでしょうか。

それに対して、古くて、文学伝統に織り込まれた作品を読むことも大事だと思う。文学の中では、実際に新しいことがない。

これからは、全ての三つを最初の部分を読んでみて、ウィキペディアのページも読んでみて、最も面白そうな作品を読もうと思う。読まない作品は日本語版を買って、アメリカに持って帰る。

じゃあ、それをしよう。楽しみだ。

自分を知りなさい

三年前大学に入ったばかりの時、早速友達を作るために、なるべく自分自身を出そうとした。同級生と知り合いたかったので、自分の性格に反してジョハリの窓の1部分を大切にして、社会的で、明るくて、おおらかな自分を作り出した。多くの友達ができたが、少々時間がたつと、その友達と仲が良くなくなってきて、話さなくなってきた。友達を作るために性格を変えようとしたため、初めから友達の性格が合わせられなかったのであろう。

それで、一年生の時の経験によって成長し、自分を全て出さなくても良いという意識ができた。つまりジョハリの窓の3項目の大切さを認めてきた。ジョハリの窓の1部分が大きれば大きいほど、自分のプライバシーがなくなってしまうのではないだろうか。このように見てみると、自分の隠したい部分を守るために、窓の3の部分も大切にする必要があるということになる。生まれてから死ぬまで、人間は実際に一人で存在している。人間関係という立場から見てみると、人生には他人との関係も大事であるが、最も大切なのは、いかに自分の他人に表せない部分と一緒に存在できるかという問題である。他人隠していた秘密をとうとう打ち明けると安心できるという場合もあるが、言葉で表せない考えを持っていない人はいないであろう。そのような分かってもらえない感じを持っているのは寂しさの原因の一つだと言えるかもしれないが、自分の表せない、不思議な部分を受け入れれば、寂しさがなくなるのではないだろうか。このような考え方は古代ギリシャにある有名なデルポィというお寺に書かれている格言に見られる。「自分を知りなさい」という格言だ。

自分のことを知るのは格言ではなくて、喜びだと思われる。自分が知らなっかた新鮮な部分を見つけるのは人生の楽しみの一つなので、私は窓の4の部分を大きくしたい。人間はまるで川のようにいつも流れていて、変化しているので、未来にもまだ意識していない性格の部分を知ることができるに違いない。

初めてのブログ + 短編小説のこと

初めてのブログだね。

函館の天気は思うより予想しにくい。昨日太陽が出たから午後に暑くなったけど、今日は曇りで、全然暑くなかった。バーモントとスコットランドも函館のように涼しくて、風が強い所だから、私はもう慣れたと思うけど、今日は涼しさでびっくりした。

2年前も夏に日本に住んでいた。すごく暑かったと覚えているから、函館に引っ越する準備をしている時、暑い天気で用意した。こんなに涼しい天気の用意を全然しなかった。セーターとか暖かいトップスを三枚だけ持ってきたから、すぐにちょっと暖かくなってほしい。スコットランドもけっこう涼しかったから、夏のような天気がほしい。(でも、少しだけ暖かくなってほしい。すごく暑い天気が全然気に入らない。)

今朝大事なメールをもらったことだ。まずメールの説明のために、バックグラウンドの情報がいる:私は作家になりたいという夢を持っている。物語や小説を書くことに情熱を持っている。スコットランドに留学している間に、普通より暇だったから、たくさん書いた。だから、今年の夏休みに私が書いてしまった短い物語(日本語では、短編小説という)を文学的な雑誌を送って、発表してもらいたいと思う。今年はもう15つの雑誌に三つの私が書いた短編小説を送った。今朝のことは、本当に気に入っている雑誌から私が送った短編小説についての返事をもらった。断れた。

でも、断れても大丈夫だ。短編小説や物語を書くのが好きな理由は発表されることじゃなくて、深い人物や面白い状況を作りたいことだ。だから、受け付けても、断れても、書き続ける。雑誌に短編小説に送ることも続ける。その短編小説は断れたけど、私はその物語を今でも信じている。だから、その短編小説は他の雑誌でホームを見つけると思う。これからの必要は探し続けるのだ。

でも、私はそう言っても、雑誌に私が書いた作品を受け付けてもらった日は、すごく嬉しくるに違いない。とうとう本当の文筆家になる気がするから。